お知らせ

  • HOME
  • お知らせ
  • 【レポート】『社会事業家100人インタビュー』(特)東京シューレ 理事長 奥地圭子氏 事務局長 中村国生氏

【レポート】『社会事業家100人インタビュー』(特)東京シューレ 理事長 奥地圭子氏 事務局長 中村国生氏

2014.06.26

「先輩社会事業家のビジネスモデルを学ぶ」

第28回『社会事業家100人インタビュー』

2014年6月6日(月)19時~21時 於:(特)ソーシャルビジネス・ネットワーク(SBN)事務所

 ゲスト:(特)東京シューレ 理事長 奥地圭子さん 事務局長 中村国生さん

 

<プロフィール>

奥地圭子さん

自身の子の不登校を機に1984年親の会「登校拒否を考える会」を設立。翌年、22年間勤めた公立小学校教員を辞し1985年、さまざまな事情で学校に行かない・行けない子どもたちが、安心して学び育つ場を作り、守り続ける東京シューレを開設。2007年には国の特区制度を利用し、学校法人東京シューレ学園理事長・東京シューレ葛飾中学校を開設。特定非営利活動法人フリースクール全国ネットワーク、特定非営利活動法人登校拒否・不登校を考える全国ネットワーク、特定非営利活動法人全国不登校新聞社の各代表理事、多様な学び保障法を実現する会共同代表。

『僕は僕でよかったんだ~学校に行かなかった32人との再会』、『子どもをいちばん大切にする学校』、『不登校という生き方』等著書多数。

中村国生さん

1992年東京シューレに参画、自身の2人の子どもも東京シューレに在籍中。特定非営利活動法人東京シューレ、多様な学び保障法を実現する会の事務局長。

 

<今回のインタビューのポイント>(IIHOE 川北)

社会からの理解が乏しい段階から、どのようにフリースクールへの理解を広め、規制の厳しい分野でどのように規制緩和を働きかけて中学校設立を実現できたのか。自身でフリースクールをつくり広めただけでなく、公教育の中に位置付け、国の制度を動かした。子どもたちの教育を受ける権利擁護とそれをどのように経済的に成り立たせてきたか、これまでの経緯と行動の背景から、学んでいただきたい。

 子どもの権利と社会情勢

東京シューレは不登校の子どもたちの居場所として一般的には知られていますが、私たちは福祉的な活動というよりは、子どもの人権、学ぶ権利のための運動だと考えています。学校へ行かない子どもを学校に戻すよりも、子どもたちの戻れない・戻りたくない気持ちを尊重し、権利を保障するには、まずは居場所でしたが、不登校の子どもの権利の前進こそが、私たちのミッションです。日本が批准してから20周年を迎える「子どもの権利条約」も背景に、東京シューレは親たちの運動から、子どもたち当事者による運動へと変化してきたように思います。

不登校の子どもたちの数は1975年頃から増加していて、文科省の学校基本調査によると小・中学校合わせて11万人から12万人で推移しています。今も不登校が非常に多い社会だといえます。

78年に我が子が転校をきっかけにいじめにあい、不登校になりました。私は教員でしたが、そのことをきっかけに、教育とはどういうものなのか、子どもの側の視点に目覚めることができました。当時は高度経済成長期後の競争と管理の強い社会状況で、学校は子どもたちに班で競争させたり、連帯責任を負わせたり、子どもたちにとってストレス度の高い環境でした。合わない、苦しいと、身体症状が出るのは、命のあたりまえの反応で、学校から距離をおくことが必要になります。しかし、当時の登校拒否のとらえ方は、不登校は子どもの「病気」、「怠け」、「弱さ」、「甘え」であり、親の子育ての失敗でした。文部省(当時)が83年に初めて出した不登校に関する手引書では、不登校の原因は、子どもや親の不安傾向、優柔不断、自信欠如といった性格の悪さとされていました。子どもが不登校になってから親と面談すれば、親は不安になっているし、迷いがみられるのは当然のことだと、私たちは文部省に抗議しました。義務教育だから学校に行かなければならないという憲法、教育基本法の誤った理解で、不登校の子どもたちは精神科や矯正施設へと追い詰められ、学校からは卒業させないと脅されたり、家にいても否定的な眼差しを受けていました。

80年代になると、子どもたちを学校へ戻すことの間違いに気づいた親たちが、登校拒否は「治す」ものから「受け止める」ものへと発想を転換し、親の価値観を変え始めたところ、子どもたちが楽に、明るくなってくるのを目の当たりにしました。親同士の学びあい、つながりは非常に大切で、84年に「登校拒否を考える会」を発足。第1回の例会には定員30名のところ100名の参加がありました。月例会が1年続いたころ、少しずつ元気になってきた子どもたちに学校以外の場所が必要だと、はじめて気が付いたのです。そこで私は覚悟を決め、教員を退職して雑居ビルの一室を借り、85年に子どもたちの居場所、学びの場、東京シューレを開設しました。

 

親の運動から、子どもたち「当事者の時代」に

初期の活動は偏見との闘いでした。88年には子どもたちによる「私たちの人間宣言」を発表する集会を開きました。文部省の調査を報道する朝日新聞の、「投稿拒否は怠け」という見出しに子どもたちが疑問を持ち、「登校拒否の子どもによる登校拒否アンケート」を行ったところ、「怠けとは言えない」というその結果報告が種々の新聞の紙面に取り上げられました。この一件で、子どもたちは自分たちの活動で世の中が変わるという手応えを得ました。

90年代は、親の会も増えたのでネットワークが全国的に広がり、東京シューレも、王子に場所を移転して大きくなりました。大田シューレ、新宿シューレ、在宅の子どもを支援するホームシューレ、18歳以上の子どもを受け入れるシューレ大学も生まれました。運動の拡がりは国会や文部省も動かし、「登校拒否は誰にでもおこりうる」と認識を改めさせたり、フリースクールへの出席が認められるようになる等、社会に一定の影響を与えることができました。子どもたちによる運動で、通学定期券の発行を実現させたり、児童福祉法の改正にあたっては「不登校を理由に子どもを教護院に入れることはできない」という付帯決議をさせる等、社会に変化を投じていきました。

こんなにがんばって活動していても、毎年9月になると、夏休み明けの子どもの自殺が報道されます。ショックを受けた東京シューレの子どもたちは自分たちの活動を知ってもらい、「自殺するくらいなら学校へ行かなくてもいいんだよ」と伝えたいとの思いがあり、私たちは、自前のメディア、全国不登校新聞社も立ち上げました。

2000年代になると、子どもの権利条約が私たちの背中を支えてくれました。子どもたちが主体となって実行委員会をつくり、2000年に世界フリースクール大会を開催したことで、子どもたちは海外のワーキングチルドレンたちと出会い、子どもの権利条約を学びました。子どもたち自身が、「不登校の子の権利はどうなっているんだろう」と気づき夏休みを返上して「不登校の子どもの権利宣言」を作成して配りました。これら全てを子どもたちが主体で、自発的におこなったのはすごいことです。また、世界大会がきっかけで、親の会のつながりに10年遅れで、フリースクールのネットワークができました。

フリースクールの考え方を活かして、子どもがつくる、子どもとつくる学校が欲しいと、この頃から考えていました。ある学校長は、不登校の子どものための学校をつくっても、不登校の子どもが来るわけがない、と言いましたが、環境がよければ、子どもたちは来ます。多様な子どもたちに、居場所にとどまらない成長支援の場が必要です。

 

フリースクールの公教育化をめざして

東京シューレは子どもたちのニーズに応えて、多様な教育事業を増やしてきましたが、教育はパブリックなもの。誰でも安定的に教育が受けられるよう、よりよい事業のために公的なしくみをつくることも必要です。最初はフリースクール法の立法を目指しましたが、構造改革特区に着目し、学校教育の規制緩和を活用する方が早そうだと考えました。従来、学校は土地、建物を所有していなければ認可されず、東京で学校をつくるには70億円は必要といわれていましたが、特区で校地・校舎の借用が認められ、教育課程も弾力的に行うことができそうでした。市民による学校をつくりやすくするための特区のアイデア提案に応募し、いくつかの提案は採用されました。

2005年6月の総会で特区に学校をつくることを決めてから、葛飾区に廃校を見つけ、葛飾区とNPO法人東京シューレが「地域連携・のびのび型学校による未来人材育成特区」構想を掲げ、2006年学校法人東京シューレ学園をつくり、2007年に東京シューレ葛飾中学校を開校しました。葛飾区から内閣府に特区申請してもらい、東京都から学校法人としての認可を得て、文科省にカリキュラムを申請するといった、非常に複雑なパズルをこなすように進めました。

私たちの参入を拒む意図があったのかは定かではありませんが、申請の1ヶ月前に東京都の学校法人の認可基準が変わりました。学校法人の認可には年間運営資金の半分を持っていることが必要とされていたので、年間6000万円の運営費の半額3000万円を一口30万円の寄付により準備していましたが、突然、1年分の運営資金を持っていることが必要と基準が変更されたのです。少額の応援では申請に間に合わないので、大口の寄付を求めて奔走しました。書籍も基本財産に含まれるので、親や一般市民の方から本を集め、計9000冊の本を基本財産として所有するようになりました。200人以上の方に協力いただき、何とか、1ヶ月で8000万円まで資金を調達することができました。

また「フリースクールの学校をつくる子ども評議会」が子どもから立ち上がり、子どもも親も参画して、学校づくりを進めました。チャイムは無いほうがよい、制服はあったほうがよい、いや、無いほうがよいと、様々なことを話し合いで決めて、市民集会も開催し関心を高めていきました。廃校の掃除も子どもたちとおこない、東京理科大学建築関係のゼミによる内装への協力もあり、開校にこぎつけました。

豊かな社会のために「多様な学びの保障」を

2013年の事業規模は特定非営利活動法人東京シューレが1億4262万円、学校法人東京シューレ学園は1億2984万円と、事業費の金額は同じくらいですが、中身は大きく異なります。NPO法人の収益構成は75%が事業収入で、売上が低い年は大変厳しい運営を余儀なくされます。一方、東京シューレ学園には私学助成が入り、収益の42%をまかなっています。学校になることで、公的補助を受け取ることができ、経営が変わりました。教育は公的なものですが、それは国の認める学校に補助を与えるというだけでなく、子どもたち一人ひとりの学びを公的に支えるという意義があります。

私たちはフリースクールは「親立」だといってきました。生徒の家庭の負担はもっと下げたかったけれど、公的支援がないままの親立では難しかった。フリースクールを公教育と位置づけ公費が出れば、子どもたちに安定した教育を保障できます。一方、学校法人では私学助成の他、経済的に困難な家庭の子どもには都や私学助成を活用して学費減額や全額免除もできます。NPOでは篤志家や企業の寄付で、シングルマザーや生活保護家庭の子どもの学びを応援するしくみを自前でつくっています。

フリースクール以外にも、子どもの学び方は多様にあります。子どもたちが安心して自分にあった教育が選べるように、今後は制度外の多様な学びを制度にのせて支援する法律をつくりたいと考えています。「多様な学び保障法を実現する会」を立ち上げて活動しており、近い将来に実現できる可能性を感じています。

 (文責:前川)

Contact us

ご相談・お問合せは
お気軽にお寄せください